友愛公共フォーラム
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白熱掲示板(公共哲学Ⅰ・Ⅱ)2011


自殺について

2011/12/12 22:54 に センター公共哲学 が投稿

少々授業に遅れた話ですが、投稿を忘れていたため今日送らせていただきます。
自殺の是非、自分は認められるべきではないと考えています。
その理由としては、あえて分類するとするならばコミュニタリアン的なのでしょうか、自殺は他者にも、自己が属するコミュニティ内の人間にも大きな影響を与えること。それが自分が考える理由です。
自分が卒業した高校で、自分の同級生、同じ部活に所属していた人間が自殺したことがありました。部活の内容の関係上、自分はその子とは特別親しいわけではありませんでした。が、今でも自殺という語を聞くと当時のことを思い出します。
自殺が発覚した後、学校周りに失礼な報道陣が集まったりしました。自殺自体やそれによるまわりの行動、それらによって自分たち同級生にはそれぞれ何らかのものが心に負ったと思います。
よって、自分は他者への影響を考えれば、自殺は許されるべきではないと思います。
授業中に「死が間近になっての自殺」と「他に手段があるうちの自殺」は別物という考えも自分は同意でき、両立できるものだと思います。"

売買春の法規制について

2011/12/12 22:54 に センター公共哲学 が投稿

講義において、貧困層への売買春の法規制を行うかどうかについて話が出たが、私は規制へ反対の立場だ。もちろん道徳的に正しい商売だとは思っていない。だが、貧困層はお金がないためやむを得ずこういった商売をするのである。彼女たちからこの商売をすることを取り上げてしまっては、食い口がなくなってしまうかもしれない。生きるために必要なのである。
 小人症の人たちで行うプロレスを、反道徳的だからという理由でやめるという議論が起こったとき、反対したのは当の小人症の人々立ったと聞く。当事者の立場に立って考えることが大事なのではないかと思う。"

<政治哲学Ⅰ>講義感想(実際の3つの問題について)

2011/12/12 22:53 に センター公共哲学 が投稿

私は自己所有権の観点から、リバタリアニズムの考え方を持っている。
現在手元にある金銭を、娯楽のために今すぐ使おうが、老後のために蓄えておこうが、それは各人の自由に行うべきであると考えるし、
努力の賜物である給料(自らの労働の結果)を自分一人の快楽のために使おうが、貧しい者のために寄付しようが各人の自由であるべきである。

第一の理由は、まず実力主義であるからこそ、技術革新やコスト低下を促進できていると思うし、もし仮に努力の成果どうりに所得がもらえないとしたら、経済成長鈍化のおそれから、むしろ全体の利益が下がってしまうのではないか。

また第二の理由として、私は何かを行うにあたって、各人の動機が最も重要だからであり、その動機によって正しい方向へ導かれるべきであると考えるからである。
私はこれまで誰かとチームを組み、何かの目標に向かって金銭報酬の発生しない活動を行う際、どのように各メンバーを活動へコミットさせられるか(以下、「労働」とする)、という部分が最も難しかった。
この時、上からルールを決め強制的に労働させても、動機が他律的であるため、その労働の質は悪い。
質を高めるためには、各人が労働する理由を見出し、労働力を提供することを自発的に判断させるように、精神的な部分に働きかけることが最も重要であると考える。
これは、一国内でも同じだと考える。
もしも富の再分配を行うべきであるとするならば、所得の多い人が自発的に寄付を行うことが「正しいこと」と判断し、実行に移すための「教育」もしくは実行に移した人が道徳的に「評価されうる仕組み」を、政府が提供すべきであると考える。
つまり、「考え方の選択肢」を提示した上で、各人の判断は各々に任せるのである。
その際、各々が自由に判断を行えるような場作り(自由権を守ること)が政府の範疇であって、政府はその範疇を超えて手を加えることはすべきではない。

また、以下は本日の補講で扱った3つの問題についての意見である。
<課税について>
私は課税についてリバタリアニズムの考え方から反対であるが、講義で非リバタリアニズムの人たちの考え方を聞き、生まれもった環境や不運といった不可抗力により生活保護を受けざるを得なくなる人を救済することも必要であると感じた。
そのため、課税については賛成するものの、所得税は一律課税を主張する。
理由は、累進課税では努力して高所得を得ようとする意欲を減退させてしまう恐れがあるからである。

<復興のための増税について>
賛成である。
これは、復興は上記に挙げた「各々が自由に判断を行えるような場作り」の範疇に入ると考えるため、講義中で出た意見と同じく、リバタリアニズムの考えを持ちながらも、増税に賛成した。
ただし、懸念事項として、マクロ経済学的な側面からの反対意見も自分の中のジレンマとして存在する。
というのも、「復興のため」ということは「復興が終わり次第、増税をやめる」ということであり、それはすなわち「一時的な増税」を意味していると認識したため、消費者の買い控えを懸念した。

<エネルギー需給体制について>
一社による独占体制を廃止し、自由競争に任せるべきであると考える。
不安定性の問題に対しては、六本木ヒルズの自家発電を挙げる。
六本木ヒルズではガスタービンを用いることで、停電の際も発電することができる。このように市場に出回っている発電システムを用いて、停電に対する策を講じることもできる。
"

政治哲学的に考えるこれからのエネルギー政策

2011/12/12 22:53 に センター公共哲学 が投稿

直近の講義で、リバタリアンの視点から日本のエネルギー問題を議論した。東電を存続させた状態でエネルギー政策を進めるのか、それとも解体させ、新たな枠組みで立て直すのか。原発に関する賠償は東電がすべきなのか、国がすべきなのか。この議論は後期も取り扱うとのことだったが、状況が日々変化する問題である為、現在までの状況から考察してみたい。
 リバタリアンの視点でのエネルギー政策は、個人に自由な電力源を選択できる権利を与えるために、アメリカやヨーロッパで進む送発電分離を実施することである。そしてそれを実行する為にも、東電をはじめとした電力会社を解体し、多くの企業が発電を行うべきである、と主張する。この主張には、二つの根拠がある。第一に、電力供給源を多様化することで国民が電力源を自由に選択できることができる。また多様化は将来の発電における技術革新を促す可能性が高い。次に多くの企業参入によって、競争が生まれ電気代が安価になる。その一方で、この主張には次のような批判が考えられる。まず新規参入した会社の安全性である。事業規模が小さければ、当然発電所での事故のリスクは高まり、多くの住民に被害が及ぶ。またそれと関連して、安定した供給が可能かどうかも疑問である。事実、2003年に北アメリカで大停電が起こった原因の一つが送発電分離政策であった。そして企業による競争は、環境に配慮したエネルギーよりも配慮を欠いた安価なエネルギーによる発電を多く生み出してしまう。これでは第二の福島第一原発を生み出しかねない。
 ではどうすればいいのか。上記の意見を考慮して、既存体制を政府側から構造変化させるべきと考える。つまり電力会社という形体は残しつつ、新たな仕組みによる運営体制を目指すべきである。具体的には、各電力会社は送発電分離を進める。その際、各管轄地域の電力方法、電力量を可能な限り均質化せず、地方の地理的特性を活かして電力源の差別化を図る。そしてこれら発電されたエネルギーを選ぶのは、個人ではなく各市区町村単位の住民投票による。つまり電力会社の経営に住民の意見を反映させる。この体制によって、電力会社は多くの市区町村に受け入れられる為、各電力源の技術革新や体質改善を頻繁に行わなければならない。また市区町村単位で電力源選択が出来る点から、企業の積極的誘致といった地域活性化の可能性を拡げることになる。つまり日本の社会問題となっている過疎化の解決にも繋がる。したがって各電力会社は半私営、半公営の特殊な組織として国民が監視下に置くという体制である。
 今回の福島第一原発の事故は、日本の電力会社の伝統的な放漫経営の実態を明るみにし、政府のエネルギー政策が時代遅れであったことを証明した。この点から東電をはじめとした電力会社は解体されるべきだ、という議論は日に日に加熱している。しかし既存体制の解体はすなわちエネルギー問題の解決につながらない。将来世代である我々学生がもっと議論を交わし、社会に訴えていくべきである。ぜひこの意見の感想、反論を頂きたい。"

講義の感想投稿

2011/12/12 22:52 に センター公共哲学 が投稿

昨年度私は、公共哲学Ⅱの講義に感動して、今年は政治哲学の講義を通年で受講することにした。昨年度の講義でも、いろいろ言いたいことを発言していたが、自分の中で、何か事例ごとに意見がブレルことが気になった。今年度、政治哲学の講義を最初から受講してみて、昨年度、漫然と受け入れていた政治哲学の3つの立場(功利、自由、コミュ)が、歴史的に、一本の筋の上に存在することを知って、これらの立場を、自分の発言に都合よくチョイスするのではなく、発言する内容の背景が、これらの立場が唱えられた歴史的背景と類似性を有しているかどうかきちんと確認することが重要であることに気付いた。そうすることで、3つの立場を正確に理解することができ、発言の内容も論理的な一貫性を有するようになるだろう。しかし、今の私は、そこに達するまでにはまだまだ修業が必要である。

講義感想:課税について

2011/12/12 22:52 に センター公共哲学 が投稿

ここ数回にわたってリベラリズムの観点から主に高所得者への課税について議論された。孫正義氏やイチローなど高所得者として挙げられる人物は多岐にわたるが、これらの人たちに対して累進制を適用し、通常人より多く課税するのは財産権(所有権)を不当に侵していないか。
 この問題に対して高所得者が得た金の性質、課税の目的の正当性及び目的達成手段としての合理性などが議論された。金の話題になり、堀江貴文氏の拝金主義の性格を帯びた発言が話題に上ったが、金は資本主義社会においてもあくまで手段であり目的ではないことは明白であろう。しかし、現実問題として金は必要でありなくてはならないものである。この点でいうと「might is right」であり、金という力の前に道徳性が薄らぐように思えるが、一方で「right is might」の面があり、金では動かせないものがあるのではないかと思う。つまり、ダイヤモンドを買うための1億円とワクチンを買うための1億円では価値(質)が違うのである。この点で、金の価値が決まるのはその額面だけでなく使われ方(使う目的)によるものだといえよう。
 したがって、高所得者が使う金と政府が使う金のどちらがより正当な目的を有するのか問題になる。確かに、孫正義氏やビルゲイツ氏のように個人で基金を設立し社会的に役立っている例も見られる。しかし、そのような活動的な人は多くなく、高所得者の多くは自分の趣味に投資したりすると思われる。自分でどのように使おうと自由であるという主張はもっともだが、人間が生きていくうえで必要な最低限の生活水準の人を前にしてその主張は酷に感じられる。所有権や自己決定権は人が有する重要な権利であるが、人格に直結する生活保障を踏みにじってまで尊重されるべきものではないと考えられる。また、課税率をあまりに高く設定すると高所得者が海外に逃げてしまい、結果的に税によって徴収できる額が減ってしまうので、徴収額ができるだけ多くなるようにバランスを取りながら設定していくことが求められるだろう。
 上記では所得税について挙げたが、消費税などの税は商品の買う・買わないを選択できる以上、生活必需品を別にして、税の拠出を対抗できない性格を持つのだから、課税対象科目や逆進性を考慮しつつも、その点において税率を比較的上げやすい性格をもつものと思われる。すなわち、課税するにしても課税の方法、目的によって良いか悪いかの判断が分かれる。"

自己矛盾というネオリベの「オチ」

2011/12/12 22:52 に センター公共哲学 が投稿

講義で触れた「ネオリベラリズム」(リヴァタリアニズム)に関連して、私は最近「自己責任」という言葉によく遭遇するなぁと思い出した。たとえば「交通事故にあうのは危険を予知できなかった者の自己責任」といった具合に。確かに自己責任とは便利な言葉だし、だいたい間違ったことは言っていない。しかしながら、自己という「個人」にとっては重過ぎるリスクを背負っている場合もあるのではないだろうか。最も驚いたのが「津波被害にあうような場所に住居を構えたのは自己責任」という主張である。「貧困に陥ったのは自己責任」という意見に関しても同じことが言えるが、これらの見方は然るべき保障を行わないための言い訳として使われていると言わざるを得ない。
 「自己責任」という言葉は、公式アンケート結果には出ないものの、ここ数年の流行語大賞に安定した順位でランクインしているのではないかと感じる。その発端には「自由」の拡大、すなわち新自由主義(ネオリベラリズム、ネオリベ)の勃興が深く関連している。自由と責任は表裏一体で切り離せないものだからだ。新自由主義は規制を取っ払い、かつてないほどの巨万の富(そんなに稼いでどうするのかとも思ってしまうが)を築く者を多く生み出した。「勝ち組」「セレブ」の出現である。一方で「負け組」も出現し始めた。派遣切りなどで住居さえ追われた人々が話題になったのもそう昔ではない。
 「自由な」競争に負けた者は人間としての基本的な権利さえ失われる。(家を持たない、餓死するなど)そして勝った者は自らの利益・富を恒久のものにしようとする。新たな利権構造を生み出すのだ。富・利益の追及自体は資本主義制度下では否定しようがないが、「自由な競争」によって「機会の不平等」という絶対的な「不自由」が生じてしまっているのではないか。そして機会の不平等に何より敏感なのは新自由主義の論者ではなのだろうか。ネオリベラリズムは自己矛盾に陥っている。
 今一度、本当の「機会の平等」「人間の自由」を問い直してみる必要があるだろう。勝ち・負けという言葉は使わずとも富の多寡は生じるであろうが、それがどうしようもない不利益にならないよう、すべての人間を包摂する社会制度づくりが求められている。この「すべての人間」というのが重要である。「公共」という言葉にはそういった意味が含まれているに違いない。"

管総理の収入は妥当か

2011/12/12 22:51 に センター公共哲学 が投稿

管総理の収入は4000万円。この収入は私は妥当だと思います。なぜなら、管総理は常といっていいほど公共の目が当てられ、発言や行動など、あらゆる場面で一般国民よりも大きな影響力があるからです。元復興担当大臣の松本さんも、例の問題発言で辞職するなど、公共の場で働く職員の発言にはある程度の制限があるのです。国家の代表として様々な場で発言をする管総理は、発言に対してかなりのリスクを負っています。また、プライベートでも一般国民よりメディアからの注目があります。これらの差を考えると4000万円の収入は妥当だと考えます。

企業の社会的責任

2011/12/12 22:51 に センター公共哲学 が投稿   [ 2011/12/12 22:51 に更新しました ]

今回の日本版白熱教室においては、先の東日本大震災で被災をした福島第一原発の話題が中心となった。原発の危険性、そして節電などで私達に直接与える影響も多大であることもあり、それぞれが主体性が持ち活発な議論が出来たのではないかと思う。
 私が一番興味を持った話題は、東京電力が一般企業として、どこまで原発の安全性に対し責任を持つかという議論であった。全体の流れとしては、私的利益を追求する企業が、営利に結びつかないような行動を取ることは不可能であるということであった。
 しかし私はこれに対し、東京電力は自らの利益を犠牲にしても、原発の安全性に責任を持つべきだと考える。確かに企業は私的利益を追求する団体であり、そのことを忘れてはならない。しかしそれ以上に企業は社会的存在であることを忘れてはならない。企業はそれ自体が社会に有益なものでなければならず、その意味には継続的に利益を生み出し続けることもあるのだが、それは全て社会的責任という言葉に内包されるのではないかと考える。社会に対しマイナスをもたらすような活動や意思決定を行う企業は、例え利益を生み出していたとしても許されざると考える。
 今回の原発事故では、東京電力が私益を意識した結果、対応が遅れ状態が悪化してしまったのではないかと言われている。このこと自体の真偽は、もう少し時間を経なければ分からないのではないかとも思う。しかしながらそれが真であるならば、東京電力には根本的な意思決定過程の改革が行われるべきではないだろうか。"

リバタリアニズムについて

2011/12/12 22:51 に センター公共哲学 が投稿

授業の最後の方で話題になったリバタリアニズムについて、感想を投稿したいと思います。
 個人の所有権、自由、権利を最重要視するこの理論はたしかに共感できる面もあります。国家による命令や税は行き過ぎたものでは不当になりかねません。しかし、現代は国家の役割を夜警だけで十分と考える時代ではないと思います。
 環境問題について考えてみると、この問題は時間的にも空間的にも影響が大きすぎるものだと思います。今回の日本の原発事故のように、海外の人や未来を担う子供達の健康を害するかもしれません。ある一定の限られた人への影響などであれば、民間の会社が利害を調節したり、保障したりすることができるでしょう。しかし、未来のこれから生まれてくる子供への配慮が民間にできるのでしょうか。そして、外国の人に対しては、その国が自国民に対する外部の民間会社の関与を認めたりするのでしょうか。
 こういったことは情報化などにも言えるでしょう。少なくとも、ある程度政府の力を許容する必要があると思います。
 個人的に、税の意義というのは過去への感謝が含まれると思います。私たちは、生まれた時から整備された道路を歩き、公園で遊び、一定の水準以上の教育を受けることができます。それらはその本来の意図がどうであれ、過去の人が整えてくれたものでしょう。過去の人が、未来の私たちにむけて施してくれたことへの感謝の意味での税と、私たちも同様に未来への献金といった意味での税があるのではないでしょうか。"

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